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第4期通信 生徒「心のふるさと」>  浦賀一 周コース

『浦賀一周コース』懐かしいですね。体育で非常呼集で何度走ったり歩い たりした事か。駆け足の苦手だった後藤にとっては良い思いはないはずなのに、何故か 「懐かしい」という感じが一杯です。
今までの同期会でもしょっちゅう話題になってきた浦賀コースですが、全国レベル最後の同期会である関東大会の〆として、また同期会アルバムの大トリとして 掲示することにしました。
また何時か会えた時の話のネタにして頂ければ有難いです。
浦 賀一周コース上の名所旧跡
S 通信学校 ① 平作川と通信学校正門 ② シティマリーナヴェラシス ③ 浦賀奉行所跡
④ 船番所跡 ⑤ 陸軍桟橋
  浦賀港引揚記念の碑
⑥ 愛宕山公園内        咸臨丸出稿の碑
   与謝野夫妻の文学碑    中島三郎助の顕著碑
⑦ 浦賀の渡し ⑧ 西叶神社 ⑨ 心臓破りの坂 ⑩ 夫婦橋から眺める平作川
   と通信学校
浦 賀一周コース外の名所旧跡及び想い出の場所
ア 勝海舟断食修行の跡 イ ペリー上陸記念碑  燈明崎 尻こすり坂
野比海岸 編集後記 56周年 トップ




S 通信学校
平和を謳う松風に 偲ぶ維新の黎明期 由緒は深し久里浜の 磯部に近く陽に映えて 見よや輝く我が校舎 おお光あり通信学校
昭和33年4月4日弱冠15歳、16歳、くりくり頭、紅顔の美少年、180名が大志をいだいてここ神奈川県横須賀市にある陸上自
衛隊通信学校に集いました。
ピカピカ3等陸士 英語授業 第4期通信生徒メダル

① 平作川と通信学校正門
入隊当時は橋を渡って右側に警衛所がありましたね。
橋のたもとで鰻がとれたのをご存知でしたか?日曜日の昼下がりやることがなくぼお~としていると、中村2年生が「ほらいくぞ」と言って鰻取りに連れて行っ てくれました。取り方は至ってシンプル泥の中に腕を突っ込んでつかむだけ。中村2年生は一回行くと1、2匹つかまえますが、自分は一度もありません。
柵外になるのですが、歩哨に注意されたという記憶もありません。また捕まえた鰻がどうなったかも記憶がありません。



② シティマリーナヴェラシス
浦賀一周コースではトンネル出口にあった元住友造船所の跡地に造られたヨット関係の総合施設で『Vela(スペイン語の帆)と Oasis(英語の楽園)の造語』で『帆の楽園』という意味。 ヨット1艇をヨットハーバーに1年間預けて置くだけでも100万円(最少ヨットで)以上かかる由;でも、『帆の楽園のみならず、 お金の楽園』を有する人々が、このヨットハーバーだけでも300人以上いるんだから・・・ そう思いながら、ヨットを横から眺めるのも又楽し!(現在、約300艇(海置き250、陸置き50)が係留中)  海やヨットを眺めながらの喫茶や軽食もOKです。
 シティマリーナヴェラシス入口 ヨットハーバー

③ 浦賀奉行所跡
1720 年江戸の人口増大に伴う江戸流入の商品流通を掌握する為、江戸に近く、港も広い浦賀に奉行所が開設された。当 時、浦賀の町は1000戸以上にも達した。
奉行所の大きさは、東西270m、南北216m、敷 坪1800坪で、業務内容は船の積み荷の検査(船改め)、海の関所、三浦半島の天領の支配、海岸警備、海難救助、地方行政、警察、裁判所などである。
1868年幕府滅亡により廃止された。現在は、周囲の石垣 と石橋の一部しか残っていません。




④ 船番所跡
浦 賀奉行所の出先機関で1721年から明治5年(1872年)迄、151年間、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と積荷の検査をする『船改め(ふなあらた め)』を行っていた。
浦賀の廻船問屋100軒余が与力、同心の指示により、昼夜を通して1日50隻にも及ぶ船 に乗り込んで、その実務を担当していた。
『入り鉄砲に出女』を取り締まる海の関所としても重要なものでした。
現在、浦賀病院があるエリアです。

⑤ 陸軍桟橋  浦賀港引揚記念の碑
陸軍桟橋:『浦賀の渡し』から南へ約300m。太平洋戦争終結に伴い、引き揚げ指定港として整備 されたL字型の桟橋。
    南方や中国大陸からの引き揚げ者56万余人が、懐かしい日本の地に第一歩を印した所です。
    前方マンションの左側に見える青色の屋根は東叶神社です。

引揚記念の碑:
浦賀港の引き揚げの歴史を後世に伝え ようと市制百周年にあたる平成18年10月に設置された。
      またボードウオークが整備され浦賀港を隔てて、東叶神社を望む東屋もあり、一休みすることが出来ます。

陸軍桟橋 引 揚記念の碑 記 念碑から桟橋方向を望む

⑥ 愛宕山公園内  咸臨丸出航の碑 与謝野夫妻の文学碑  中島三郎助の顕著碑
愛宕山公園は1891年(明治24年)元浦賀奉行所与 力・中島三郎助の顕彰碑を建立するのに伴い開園したもので横須賀市最古の公園です。50m四方のこじんまりした ものであるが、西側の一番高いところに中島三郎助の顕彰碑が中程に与謝野夫妻の文学碑が東側海に近いところに咸臨丸出港の碑が建てられている。

浦賀一周コースから石段を220登った
所で、浦賀港を一望できます。

咸臨丸出港の碑:碑は、軸先を行き先のサンフランシスコ(東方向)に向けて建てられ艦長 勝海舟を始め、
    福沢諭吉、ジョン万次郎らの乗組員全員の名が藤山愛一郎元外務大臣の筆で刻まれています

    碑の左側とがった方向が、サンフランシスコ。毎年5月には、咸臨丸祭り が盛大に行われます


与謝野夫妻の文学碑:明治34年6月与謝野寛と晶子は結婚、同年8月に出版された晶子の第一歌集『みだれ髪』は世の
    注目を浴び、新詩社黄金時代の幕開けとなった。
    二人は、明治30年代の詩歌壇を主導して浪漫主義 文芸の花を咲かせ、石川啄木、北原白秋、高村光太郎、
    佐藤春夫らの俊英を輩出した。

    碑の歌は、昭和1033日、与謝野夫妻が観音崎、浦賀、久里浜を吟行した折に詠んだものである が、
    
その日は思いのほかの寒さであった為か、寛 は、同月26日肺炎で没しているので、生涯最後の歌であ る。
中島三郎助の顕彰碑:碑文は、函館五稜郭で共に戦った榎本武揚の作である。

咸 臨丸出港の碑 与 謝野夫妻の文学碑 中島三郎助の顕彰碑

⑦ 浦賀の渡し
『浦賀の渡し』は、東叶神社のある対岸まで約3分;150円です



⑧ 西叶神社
西浦賀の総鎮守。
1181年源頼朝の旗揚げ の際、源氏の再興を祈願したことに始まり、1186 年に平家滅亡により、その願いが叶ったこと
から『叶明神』の称号が与えられた。

浦賀には、西叶神社と東叶 神社がありますが、本家は西叶神社。現在の社殿は、1842年再建され、当時のお金で3000両かかったとのこと。
1881年(明治14年) 明治天皇が観音崎砲台への行幸時、ここで休息され、そ の『明治天皇駐れん(二人の男が手で引く天子の車)の碑』が社殿右下に建っています。
近年は、時代世相を反映し て特に、高校や大学及び諸願成就祈願者が急増しているとの事。
毎年、9月第二土・日曜日 に例祭が行われ、神輿だけでも21基以上参加し、大変盛大です。

浦賀では、幕末の1867 年10月、西叶神社下の湖幡屋の砂糖樽からお 札が発見されたのに端を発し、老若男女が『ええじゃないか』と言いながら町を練り歩き、富豪の家に土足で躍り込み、酒や食事などの振る舞いを強要する『え えじゃないか世直し運動(封建社会への民衆の抗議)』が発生し、三河その他へ波及したが、世直し行動には、結びつかなかったようです。



⑨ 心臓破りの坂
写 真左:海岸を少し入った所からの急な上り坂 正しく心臓破りの坂でした。カーゴでいうならセコでエンジン全開 ワンワン唸りながら
    上って来る所ですね。ここらで何度歩こうかと思案したことか否歩き出したこともありました。
    ちなみに三峰さんの家はこの辺ですね。

写真中:だらだらした上りはまだ続き、ようやく頂上(地図に付いたら今度はだらだらした下り、これが夫婦橋まで延々と続く。
    勾配はたいした事はないと言っても体にこたえる。頑張れ頑張れと言う声とやめとけやめとけという声が半分づつ聞こえて、
    ほんとに辛い。コース中で一番嫌いな所でした。

写真右:浦賀港拓道碑と
久比里坂開削記念碑(左側手すりの陰)
     頂上から夫婦橋寄り約50mの右側(北側)に建っている。高さ2.5m,幅1mの大きな碑で、江戸時代末期に八幡村
     (現、久里浜)から出て江戸で財を成した峯島茂兵衛が明治4年(1871年)春から11月迄、3000人を雇い、費用
     は全て私費を投じて坂道を切り開いた経緯が記されている(明治5年建立)。
     久比里坂開削記念碑(左側手すりの陰):
浦賀港拓道碑は当初浦賀の坂口に建て られていたがそれを現在の場所に
     移設した
(明治30年11月)経緯が刻まれている
心臓破りの坂 だ らだらの頂上付近 浦賀港拓道碑と久比里坂開削記念碑

⑩ 夫婦橋から眺める平作川と通信学校
山からようやく下って平地に 出たところが夫婦橋。
ホッとしな がら平作側の川面越しに見える通信学校 何故か我が家にたどり着いたような安堵感を覚えました。
でも学校(
御稜威橋)迄まだ500mラストスパート 頑張れ


ア 勝海舟断食修行の跡
1860年 日本で初めて太平洋横断を成し遂げた咸臨丸の艦長格勝海舟は出港にあたり、船玉明神を祀る東叶神社(地図 左下にある
           お寺記号の場所)で航海の安全を祈願した。
         井戸で水垢離をした後、裏山の山頂(約300の石段を登っ た所)で、断食修業をしたと伝えられている。

芭蕉句碑:勝海舟が修業した東叶神社の拝殿前から坂(石段)を上るとすぐ左手の樹蔭に浦賀港を見下ろすように自然石の碑が立ってい
       る。『丹よ起 く と帆はし良寒き入江哉』(読み方:にょきにょきと帆柱寒き入江かな)と記されている。

水 垢離の井戸 断 食修行の跡 芭 蕉句碑

イ ペリー提督上陸記念碑

久 里浜海岸:海岸幅500mの内、ペリー公園前から平作川迄300mの間にフェニックスが大きく成長しています。
      当時の水泳訓練場とはがらりと様子が違いますね。
ぺりー上陸記念碑:1853年
7 月14日久里浜に上陸したペリーはアメリカ大統領からの国書を日本側に引き渡した。
         ペリー上陸を記念して
明治34年 (1901年)7月14日に記念碑(碑文の字は伊藤博文)が

          建てられた。

ぺ りー記念館:ペリー来航100周年(1953年)に、日米友好のシンボルとしてペリー記念館が 建設された。

        7 月14日のペリー祭には式典や花火が毎年行われているが、平成25(2013)年は160周年に

        なるので特に盛大に行われた。

久 里浜海岸 ぺりー上陸記念碑 (左:現在 右:入隊当時) ぺ りー記念館

燈明崎と燈明堂

1648 年に作られた日本式の灯台で1872年迄、224年間1日も休まず夜間の海上安全確保の役割を果たした我が国の

灯 台史上極めて貴重な物です。
階下は番人小屋で、上の紙張障子の中には直径36.4cm、深さ12.2cmの銅製の燈明皿が置かれ、一晩に燈芯百筋、

菜 種油1.8リットルが灯され、その光は7.2kmまで達したという。
昭和43年2月、横須賀市の史跡に指定され、当時の姿そのままに復元されたものです。
浦賀一周コーストンネル出口から右へ500mの所にあり浦賀湾の入口に当たる。すぐ横まで車でもOK で駐車場もあ ります。


燈 明崎 燈 明堂

尻こすり坂

野 比一周コース(10Km)の難所でしたね。生徒当時は米軍の弾薬庫があったような辺鄙な所で見渡す限りススキが生えていた様に覚えて

い るのですが今では住宅地の中を通る普通の道、当時の面影はありません。

昔 は狭い山道で通行する人はあえぎなが ら上り、尻をこすりながら下りたと言われる程の急な坂。それから『尻こすり坂』と名付けられたと

い う。また天秤棒の両端に吊るす籠の尻を地面に擦りながら上り下りしていたことから名付けられたとも言われています。


このような急な坂の掘削工事には3万人が携わった と言われる難工事で、当時のお金で5000円、地方の事業としては一大事業で あった。又、発起人が三浦半島全域 にわたっている事からも、浦賀から久里浜、三崎に至る三崎街道の要所であったことが想像できる。
工事が完成した、明治18年(1885年)12月に尻こすり坂開削碑が建てられた。

頂 上手前300m付近から 頂 上 掘 削碑

野比海岸

野 比一周コース (10km)の中で、野比海岸は、ほぼ一直線で約3km。 行軍で歩く時は嫌いなコースでしたが、なぜかこの海岸は好きでした。あの 草間っつあんもここではのんびりしていたように思います。
ルールなしのラグビーのような球技がありましたね。校庭では危険なのでここでしかできなかったのですが、競技の後の休憩時
間が待ち遠しかったです。

東日本大震災時の大津波やその後の高波などで大量の砂が海中に流されて砂浜の奥行が約半分位に減少し、且つ砂の量も道路際まで
あったのものが、すっかり流されて下の岩肌が見えるようになってしまいました。

左 側の煙突は焼却場の 煙突,右側は東電の煙突で200mと180mありま す